鹿児島県民は、開聞岳(かいもんだけ)が大好きだ。
嬉しい時も、悲しい時も、故郷を離れ帰ってきた時も、薩摩半島の南端に凛としてそびえるあの山の姿は、いつも我々の心に静かに寄り添ってくれる。
我々が日常の風景として当たり前に目にしているこの山は、実は他の名峰を凌駕するほどの価値を秘めた、唯一無二の存在だ。
身近にある、偉大なる百名山、開聞岳
開聞岳は、「かいもんだけ」と読む。
鹿児島県の薩摩半島の最南端、指宿市(いぶすきし)にそびえる、標高924mの美しい山だ。その完璧な円錐形の姿から、「薩摩富士」の愛称で親しまれている。
日本には「日本百名山」という、いわば「日本の名山ベスト100」のリストがある。これは、作家・深田久弥(ふかだ きゅうや)が日本中の山々から「本当に素晴らしい」と感動した山だけを選んだ、とても名誉ある称号で、空前の登山ブームを生み出した。ただ、選ばれた山の多くは、険しい山奥にあって簡単には行けない。
ところが、我らが開聞岳は全く違う。
なんと、政令指定都市(鹿児島市)から車で日帰り圏内という、破格の訪れやすさを誇るのだ。これほど身近な「百名山」は、全国でも非常に珍しい存在と言えるだろう。
標高は924メートル。
「1500メートル以上」という百名山の暗黙の基準には遠く及ばない、開聞岳。
にもかかわらず百名山に選ばれたのはなぜか。
その理由は、訪れやすさという魅力だけでない。
完璧なフォルム、「薩摩富士」
まず、その比類なき美しさにある。
多くの山が連なりの中に存在するのとは対照的に、開聞岳は海抜0メートルの東シナ海から、巨人のごとく、突如として天に向かってそびえ立つ。
裾野を優雅に広げるその姿は、どこから見ても完璧な二等辺三角形を描き、「薩摩富士」の名に恥じない気品と風格を漂わせている。

この完璧な山容は、多くの偉人を魅了してきた。江戸時代、日本地図作成のために全国を測量した伊能忠敬は、この地から望む開聞岳の姿に感動し、「天下の絶景なり」と最大級の賛辞を贈ったと伝えられている。登らずとも、ただそこにあるだけで人を感動させる力。それが開聞岳の第一の価値だ。
歯ごたえのある高低差
しかし、開聞岳の真価はその優美な外観だけではない。むしろ、その見た目を心地よく裏切る登りごたえにこそ、他の百名山を凌駕する魅力が隠されている。
例えば、同じく九州の百名山である霧島の韓国岳(標高1700m)。その登山口は標高1200m地点にあり、山頂までの高低差はわずか500mほどだ。一方、開聞岳は麓の2合目から登り始めるため、ほぼ麓から900m以上の標高を自らの足で稼がなければならない。これは韓国岳を登るよりも遥かに大きな負荷である。
そう、めっちゃしんどい低山なのだ。
実際、開聞岳の麓から頂上を見上げると、「・・・あんなところまで登るのか」と心が折れそうになる。
だが逆に、下山後に頂上を見上げると、「おいおい、さっきまであんなところにいたのか!」と異常な達成感に襲われる。

ちなみに地元の小学生は遠足でこの百名山に登る。
ビバ、指宿チルドレン。
超珍しい、螺旋状の登山道
そして、この山をさらに特別なものにしているのが、螺旋状に続く珍しい登山道だ。
開聞岳の頂上まで、ぐるぐると周囲を回りながら登って行く。
一歩進むごとに眼下の景色は角度を変え、錦江湾、大隅半島、そして雄大な太平洋といった360度のパノラマが、挑戦者の疲れを絶景のご褒美で癒してくれる。

戦争と開聞岳
その姿が持つ意味は、登山家だけのものではない。
太平洋戦争末期、多くの若き特攻隊員たちが、近くの知覧基地からこの開聞岳を「本土最後の姿」として目に焼き付け、沖縄の空へと飛び立った。彼らにとって開聞岳は、故郷そのものであり、別れを告げる富士だったのだ。この悲しくも美しい物語もまた、この山が持つ深い個性なのである。
深田久弥が愛した「万感の山」
百名山の選者である深田久弥は、その著書で開聞岳をこう評している。 「高さこそ劣れ、これほど完璧な円錐形もなければ、全身を海中に乗り出した、これほど卓抜な構造もあるまい。名山としてあげるのに私は躊躇しない」
さらに彼は、終戦後に中国から帰還する船上、夜明けの海にこの開聞岳のシルエットが浮かび上がったのを見て、「とうとう内地に戻ってきたという万感がこみ上げてきたのを忘れない」と記した。開聞岳は、彼にとって日本の象徴であり、帰るべき場所の目印だったのだ。
アクセスしやすく、見た目は優美。しかし一度足を踏み入れれば、人生訓にも似た深い達成感を与えてくれる。そして、その姿は歴史上の偉人から現代を生きる我々まで、多くの人々の心に特別な感情を刻み込んできた。
これほどまでに唯一無二の物語を持つ山が、他にあるだろうか。
そう、我々には、開聞岳がある。
開聞岳登山口




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